今回は長沼町の道の駅「マオイの丘」にある記念碑のお話をしたいと思います。
先月、家族でドライブに行って、マオイの丘に立ち寄った際、駐車場の横に記念碑があることに気がつきました。それが上の写真です。
ナニコレ?と思い、近づいてみると、「松浦武四郎紀行足跡之碑」との記銘が。なんと、あの「北海道の名付け親」である松浦武四郎氏の記念碑がこんなところにあったんですね。
松浦武四郎といえば『江戸時代の探検家で、何度も北海道(当時は蝦夷地)に訪れて、探検を行い、多くの著書を残した人』で『蝦夷地を「北海道(北加伊道)」と名付けた』ぐらいしか知らなかったのですが、長沼町にも訪れたことがあったようです。
さて、この記念碑の碑文ですが、以下のようになっています。
文字に起こしますね。
「松浦武四郎紀行足跡之碑」の碑文
松浦武四郎阿部弘は丈政元年、現三重県三雲町に生まれる。十六歳から全国を遍歴し、弘化二年(一八四五)ついに蝦夷地に渡る。以来四航し六度蝦夷地と樺太及び千島を探検。その関係書著は三八三種に上り、近世北海道の探検、警世家の集大成者と表され、この間水戸九代藩主斉昭の厚い知遇をうける。
安政四年七月(旧暦) 札幌~夕張新道の調査を命ぜられ、石狩川より千歳川を遡上、旧オサツ、マオイ沼を船行してこの幌内に上陸、馬追山を超え、その帰途またこの地に泊して詠す。
出るよりやがてかたぶく月影の
移り行く世のならひをぞ思う
明治二年開拓判官、北海道国郡の区画、道名・紺郡名を選定し「北海道の名付け親」として不朽の名を残す。またアイヌ民族に対する深い愛情は胸を打つものがあり、その稀に見る人間性は、現代に生きる我々に人間のあり方を啓示す。
明治二一年七〇歳で卒す。死するに先立ち従五位に再叙せられ、こえて昭和一三年札幌神社・開拓神社に祀られる。
この碑は翁の神仏崇敬と、早逝の長女を追悼して明治八年東京上野東照宮に奉納した大銅神鏡を模し、また旅路にあって分身の如く携帯した鍋(鍋塚) の意を汲んで碑中に収む。
けだし、安政の昔、新道見分けの任を負い、この地を踏査した足跡にかんがみ、まこと国道二七四「樹海ロード・道の駅」に相応しく、その高き志を形象し、由緒を刻みて建立す。
平成八年七月七日
松浦武四郎紀行足跡之碑建立期成会
これは、松浦武四郎の業績を記したものですね。
・6回蝦夷地と樺太、千島を探検した
・その関係書著は383種もある(!)
・近世北海道の探検、警世家の集大成者と呼ばれた
・水戸九代藩主の(徳川)斉昭の厚い知遇を受けた
などなど。
そして、安政4年(1857年)、札幌~夕張新道の調査を命ぜられて、長沼町に訪れたようです。「旧オサツ、マオイ沼を船行して」とありますので、船で訪れたんでしょうね。この当時からマオイという地名が存在していたことを考えると、なにかロマンを感じます。
調べてみると、マオイというのはアイヌ語で「ハマナスの実の多い所」という意味らしく、当時存在したマオイ沼の付近にはハマナスの群生地があったようです。【参考サイト】
碑文の最後の部分も興味深い。
・この碑は翁の神仏崇敬と、早逝の長女を追悼して明治八年東京上野東照宮に奉納した大銅神鏡を模し
・旅路にあって分身の如く携帯した鍋(鍋塚) の意を汲んで碑中に収む
娘さんが早くにお亡くなりになったんですね。(私にも娘がいるのでこういう話を聞くとツライです。)その娘さんを追悼した「大銅神鏡」のレプリカと、分身の如く携帯した「鍋」(どれだけお気に入りだったんだ?)のレプリカが、この碑に収められている、と書いてあります。
それがこれです。
うーむ。碑文を読んで初めてわかることですが、この記念碑はずいぶん盛りだくさんですね。
で、この鍋の横にある「夕張日誌」については、碑文に説明がないので調べてみたのですが、どうやら松浦武四郎の著書の1つのようです。おそらくなんですが、この地域を調査した際の記録が載っているのだと推測されます。
と、これを調べているうちにとんでもないものを発見してしまいました。
なんと、「夕張日誌」の実物の全ページが画像としてウェブで公開されています!
万延元年(1860年)に出版された書籍とのことですが、そんなものがこんなに鮮明にしかも、ウェブで簡単に見られるなんて、、、、正直背筋が寒くなるぐらい感動しました。
松浦武四郎については、これからもこのブログで取り上げていきたいと思います。